今年も押し迫って来ました。皆様に於かれましても、年末に向けておわ正しい日々をお過ごしのことと存じます。全国的に労働力不足が問題になっている昨今、当社も例外ではなく、夏以降に何人か入社してくれましたが、1名が脳梗塞で入院、1名が退社と年末に向けてどうなることか、と11月から日々走り回りながらの気ぜわしい日々を送っていました。そんな中でも東北へ暫く行っていなかったのがストレス(?)になっており、急遽11月の連休に行こう!と決めてしまいました。それも11月に入って10日過ぎだったと思います。行くのを決めても何処へ行くのか、何をするのかが問題であり、当然参加してくれるスタッフの確保も必要です。発災後5年近くになり、以前のような物資配布は殆どニーズもなくなりつつあり、専ら子供さん向けのイベントに特化しつつある傾向は否めませんが、倉庫には全国から寄せられた応援物資もまだ残っています。子供たちを楽しませ、父兄や来場して戴く住民の皆さんにも喜んで戴ける受け入れ先はないものかと思案していましたが、やはりこういう時は現地のお力を借りるのが一番です。今回打診させて戴いたのは「笑顔バス」の山縣さん、そして4年前に一度だけ訪問した気仙沼のIさん(たまたまFBで繋がっていました)、その他にも数名打診させて戴きました。真っ先にご連絡戴いたのが山縣さん。11月の22日なら受け入れてもらえる商店街がある、とのことでしたので先ず1ヶ所確定。これが宮城県亘理郡でしたので、なるべく近隣で、と考えていたらIさんから受け入れOKのご連絡を戴き、21日の土曜日に気仙沼でイベント開催となりました。次は宿泊先の確保。たまたま10月のアクアイグニス(三重県)でのイベントで女川町のポスター展が開催され、そこで気になっていた女川町の宿泊施設「エルファロ」に連絡し、取り合えず8部屋確保。実は、いつも利用する宿泊施設は全て予約で満室だったんです。予約してから地図を見れば何とも微妙な位置です。それでも震災後に出来た「トレーラーハウス」のホテルということで是非とも利用してみたかったので、あとは寝る時間を削ればいいか、と相変らず単純な頭で決めてしまいました。急なことで参加者のことも不安でしたが当方から6人、途中から1人、福井からはH社長親子が亘理へ駆けつけてくれ、土曜日は陸前高田から3人、日曜日も仙台や岩手から応援に来て戴き、何とか頭数は最低数確保出来ました。
さて、土曜日の活動からレポートさせて戴きます。会場となったのは気仙沼市の高台にある「気仙沼公園仮設住宅」でした。ここは第9弾(2011年10月)に一度訪問した所で、実に4年ぶりの再訪となりました。当時は192世帯もあり、配布会には長蛇の列が出来たことも思い出し、感慨ひとしおでした。Iさんが所要で少し遅れるとのことでしたが、イベント開催に一役買って戴いた「ボランティアステーションin気仙沼」のHさんが駆けつけてくれ、一緒に自治会長さんにご挨拶。すぐに設営を開始しましたが事前の告知をして戴いたこともあって子供さんやおばあちゃんたちが三々五々様子を伺いに出てきてくれました。「どこから来たの?」とか「何をしてくれるの?」と次々に質問を浴びながら時間を気にしつつ準備の手は休められません。それでも、この時間が毎回すごく楽しみなんです。僅かな時間で仲良くなれたり、手伝ってくれたり。中には「あんたたち、前にも来てくれたよね?」というお母さんが。この4年間でかなり仮設を出た人がいることや復興住宅の話、そして4年前の配布会の話にも花が咲きました。今回のメンバーで4年前に来たものは他に一人もいませんでしたが、トラックに貼ってある「こにゅうどうくん」のステッカーで思い出してくれたようです。
事前の話では50名くらいと伺っていたんですが、実際にはその倍以上の来場があったと思います。仮設住宅ということもあり、子供さん向けのゲーム以外にも応援物資(陶器、雑貨、小型家具、ぬいぐるみなど)の配布会場も設けました。振舞いコーナーも四日市とんてき、焼きハマグリ、みたらしだんご、綿菓子にポップコーンを用意し、焼き始めるとすぐに行列です。天気にも恵まれ、最高のスタートとなりました。
10時過ぎにはあちらこちらから歓声が聞こえ始め、配布コーナーには両手に余るほどの品を手に満面の笑みを浮かべるお母さんたち。何でもこのような催しは久し振りとかで、「まだ忘れないでいてくれるんやね」という言葉にはやはり一抹の寂しさを感じましたが、住民の皆さんは本当に笑顔で接してくれました。スタッフとして同行してくれたTさんから提供のあった着物は陳列している時からお茶の教室をされているというご婦人が全部欲しいと言われていたんですが、他にも希望者が多かったので仲良く分け合って戴きました。持ち帰りかな、と思っていた万古焼の小皿や土鍋を利用した植木鉢は想像以上の人気で、プラスチックケース6個分が全て引き取って戴きました。以前にも他の場所で出したんですが、殆ど残っていた物なんです。今回は小皿は全て柄を揃えてビニールラップでくるんだり、植木鉢には実際に花を植えて「サンプル」の展示をしてみたのが功を奏したようです。
この土鍋やマグカップも塗りムラがあったりした「B級品」だそうですが、底に小さな穴を空けて植木鉢に変身したことで新たな利用法が出来たものです。出し惜しみしてまだ少し倉庫に残してあるので、次回もこの方法を取り入れよう、と密かに考えたのは内緒です。
振舞いコーナーはとんてき担当のM料理長、みたらし担当の大工M君、ハマグリ担当のH君の職人技により用意した約200人分が全て完売。持ち込んだ「畳の縁台」でくつろぎながら三重の味を楽しんで戴きました。
右下の写真は担当者不在の綿菓子機の前でいまかいまかと健気に待ち続ける子供さん。何せ食べ物で5品目、配布コーナーに加えてゲームコーナーでスタッフは手一杯の状態です。そんな様子を見かね、今回はカメラ係を頼んでいたT君が急遽名乗りを上げてくれました。今回は東京で仕入れた5色のザラメを用意していたので「何色がイイ?」とリクエストを聞きながら対応してくれています。そんな訳で今回も写真が思ったより少なくて残念ですが、子供たちの笑顔には替えられません。
後半には「必殺!セルフサービス」で来場者にもお手伝い戴き・・・・・それが原因かどうか、翌日には綿菓子機が壊れるハプニングがありました。(泣)
ここの子供さんたち、元気一杯で礼儀正しく、みんなが仲良しでした。年上のお姉ちゃんの言いつけを小さな子が素直に従い、仮設の住民でない子供さんを見かけると声をかけて一緒に遊んでくれる、そんな素敵な子供たちでした。ここは開設当初から神戸の震災を教訓にし、幅広い年齢層が一緒になったコミュニティ作りを心掛けたそうです。高齢者ばかりが集まった所では、また災害が発生した時に誰も動けないことを想定し、元気な若い世代と一緒にいることで緊急時に即対応出来ることが安心にもつながったそうです。確かに、発災後暫くは現地の情報が混乱し、仙台や石巻、釜石など大きな都市部の情報はマスコミの報道からも伺い知ることは出来ましたが、もっと小さな町村や、ましてや個々の避難所や仮設住宅からの情報はインターネットへの書き込みからしか知る術がありませんでした。若い人がいるとスマホやパソコンで必要な情報を提供でき、我々もその情報を頼りに活動したものです。ここを知ったのも窓口になって戴いたIさんの情報を大阪のKさんがキャッチし、必要な物資や世帯数などの情報を戴いてトラック2台で物資をお届け出来たんです。高齢者ばかりだとやはり失礼ながらインターネットを使いこなせる方はごく少数で、携帯電話すら持っていないという方もかなりいらっしゃいました。固定電話は被災して使えないため、数日間孤立状態になった集落もあったと聞きます。そういった意味ではこの仮設住宅の取り組み方は今後の教訓として残すべきものだと痛感しました。仮設から出た人も、いまだに仮設での生活を続けている方も同じ苦労をした「仲間」としての連帯感もあるんよ、と嬉しそうに話して下さったご婦人の言葉が忘れられません。また訪問したい場所が一つ増えました。今回、大工M君の仲介で水沢消防団さんから提供のあった白菜をお配りし、楽しかった初日が無事終わりました。4年ぶりにお会いしたIさん、今でも当時と全く変わらない外観もさることながら、ベビーカーに乗っていた赤ちゃんがすっかり大きくなってすっかり「お兄ちゃん」になっていたのには驚きました。Iさんも今は仮設を出て新居で生活されているそうで、少しずつですが元の生活を取り戻しつつあるんだな、と実感しました。今度会える日を楽しみに、最後まで見送って戴いた皆さんに別れを告げて気仙沼を後にしました。
さて、時刻は午後4時、これから女川までひとっ走りですが、楽しみにしていた「女川丼」には間に合いそうにありません。少し時間的には中途半端でしたが気仙沼港にある「魚の港」へ。ここの海鮮丼は料理長Mさんが「忘れられない」と言っていたのを思い出したんです。隣接する海産物の売店で買い物をし、海鮮丼に舌鼓を打って眠い目をこすりながら約3時間、今日の宿泊地である女川町のエルファロに辿り着いたのは夜9時過ぎ。真っ暗闇の中にライトアップされた宿泊棟を見て想像以上に立派な施設に驚いた上に、シングルルームとして予約した部屋は全てベッドが2つのツインルーム。これなら2人1部屋で良かったやんか!とブーたれつつもその快適な設備に満足しました。残念ながら新造となった女川駅に併設された温泉施設は営業時間に間に合わなかったこと、翌日の出発が午前7時と早かったことが悔やまれますが、また必ず泊りに来たいところでした。