39弾が昨年10月18日でしたので、約半年ぶりの活動報告です。年末年始は仕事の繁忙期でもあり、なかなか東北へ行く時間をつくれなかったんですが、3月は地元の危機管理室と消防本部が主催した防災パネルディスカッションに釜石の勇人君共々パネリストとしてお呼び戴き、4月は毎年恒例のエキサイトバザール四日市に東北応援ブースとして出店。それ以外にも東北絡みで動いていたので、何故かそんなに間が空いたとは思っていませんでした。
実は、3月の連休に一度計画はしたんですが、母親の入院・手術があったために5月の連休で、と延期させて戴きました。その間、色んな想いが交錯し、あそこへも行きたい、あの人にも会いたい、と次から次へと想いが募り、日程も過去に例のない車中2泊・現地2泊の活動になりました。正直、何から報告させて戴けば良いのか解らない状態ですが、いつも通り時系列で報告させて戴きますね。今回は長文になりますのでお手元に飲み物やお茶菓子をご準備の上お読み戴ければ幸いです。(*^_^*)
今回は一応(?)承諾を戴きましたので差し障りの無い程度でお名前を使わせて戴きます。今回の参加者は知る人ぞ知る米子のみっちゃんと息子の祐希君、四国中央市から山内ご夫妻、千葉のみずほさん、一宮市から谷さん、地元三重からは内藤君、紀平君、平田シェフ、舜君、志乃さん、渡邊さん、伊藤さん、川出さん、豊増さん、谷口君、高田さんとその娘のこころちゃん、伊藤君、柳田さん、中川君、そして私。総勢22名がトラックとマイクロバスに分乗して一路東北へ出発したのが5月2日の午後7時40分。 その後、福島県の富岡町で埼玉の寺さん、石巻で栃木の高野さん、更に釜石で福井の平木さんと息子のトシ君が合流し、最終的にあすなろとして26名の大所帯となったこともご報告させて戴きます。(出発前にCTYの取材があったのと、私が免許証を見失ったために10分遅れの出発となりました。)
画像では解り辛いですが、4トン車に満載の物資やイベント用品、そして愛媛のウグイスの会様から提供戴いたミカンも積み込んでいます。昼頃からは参加者も集まりだし、一部の方にはあすなろのDVDや過去の写真などを見て戴きました。
今回、初参加の方も6名いらっしゃいましたが、初めてとは微塵すら感じないほど最初から打ち解け、出発前にはすでに和気あいあい、という雰囲気でした。それぞれのご活躍については文中でご紹介するとして、早速本文に入らせて戴きます。
GW真っ只中でもあり、高速道路は恐らく大渋滞、絶対参加者からはクレームが出るだろうな、と覚悟していたんですが、出発直前に私の免許証が行方不明になり、大騒ぎして10分ほど出発が遅れたのが良かったのか、それとも参加者の心掛けが良かったのかは定かではありませんが、予想以上にスイスイと走り、目的地の常磐道広野IC手前のPAに着いたのは午前5時頃。待ち合わせをしている埼玉の寺さんに連絡をとり、富岡町内で合流し、最初の訪問先であるJR富岡駅へと向かいました。既にブログでもご紹介した通り、今回の目的は3つあり、初日はとにかく「現状を見てもらう」日程を組みました。毎年3月11日が近ずくとTVなどでは必ず報道特集を放映します。それでも、映し出されるのはかなり復旧工事が進んだ場所であったり、悪く言えば美化された内容が多かったように感じます。捉え方は十人十色ですが、せめてあすなろに参加してもらった人には現実を見て欲しい、と敢えて選んだ場所でした。
上の写真はJR富岡駅前の僅か数百mの市街地です。もちろん、人影は全くありません。つい最近まで立入り禁止区域だった場所です。それぞれの建屋の中には発災時のまま取り残された家財道具などが散乱していたり、軽トラックが津波で押し込まれたままになっています。押し入れにはハンガーに掛かったままの衣服、床には食器などが散乱したままです。これでも「瓦礫」と呼ばれるものはかなり撤去されたそうですが、流石に4年たって改めてこの光景を目にした瞬間、胸が締め付けられて言葉を発することが出来ませんでした。福島県と聞くとどうしても原発のイメージが強いですが、沿岸部は当然津波の被害も被っています。この辺りも1階部分は殆ど壊滅的被害を受け、場所によっては2階まで津波が達していたであろう痕跡も見受けられました。
この4枚は富岡駅のあった場所です。辛うじてホームだったというのが解る位で、駅前の駐車場の看板も捻じ曲げられたままです。右下の建屋は除染した土を詰めたフレコンバッグの貯蔵施設(仮置き場)です。国道6号線や常磐道の左右には野積みされた黒いフレコンバッグがあちらこちらに積み上げられていました。現在はあくまでも「仮置き」ですので、いずれはどこかへ移動させるんでしょうが、何千トン、何万トンという気の遠くなるような膨大な量です。これだけでも復興はまだまだ先が長い事を感じました。
どうか記憶の片隅にでも留めて下さい。これが2015年5月3日現在の富岡町の現実です。
さて、続いて訪れたのが南相馬市で活動されている「復興浜団」の本部でした。この時期、ここでは菜の花畑に迷路を作っています。今回合流してくれた寺さんもこの復興浜団のメンバーであり、時間を縫っては泥出しや遺骨捜索などのボランティアを続けています。私も浜団さんのことはよく知りませんが、代表者の上野さんが被災してご家族の何人かを無くされ、被災した自宅を個人的に「震災遺構」として残されています。震災後に誕生した娘さんには亡くなった兄弟の名前を宛がわれています。綺麗な菜の花と青空に泳ぐ鯉のぼり、天国から見て喜んでくれていることでしょう。
写真撮影は如何なものか、とは思いましたがこれはどうしても伝えなければならない、と思い少し横から失礼させて戴きました。自らの辛い思い出を封印し、一人でも多くの方に伝えたいという想いで被災家屋を残されています。玄関には幼い兄弟への手向けの花がたくさん供えられていました。
続いて回ったのは広野火力発電所の見える海岸。相変わらず荒野と化した土地に崩れた堤防がそのまま残されています。見渡す限り建物らしきものが何一つ残されていない光景は改めて津波の破壊力を感じさせられました。
この後、南相馬・相馬市内のR6を北上し、亘理へと向かいました。広野からの6号線では進入路が全て封鎖され、草だらけになっている民家、中に商品が残されたままの店舗など、移動中はバスの車内も皆押し黙り、重い空気が流れていました。それでも相馬あたりでは普通に営業されている店舗や生活感のある住宅を見て、僅かな(原発からの)距離でこんなにも違う風景になるのか、と感じた人も多かったと思います。そんな重苦しい気分の中、亘理の斎藤さん宅へ到着し、イチゴ畑を見せて戴き、お母さんの用意して戴いた郷土料理を味わううちにかなり気分も楽になりました。お父さんからイチゴ狩りもさせて戴き、しばし楽しい時間を過ごさせてもらったんですが、今日は釜石で使うためのイチゴを受け取りに立ち寄るのが目的だったので、早々に切り上げ無くてはなりません。後ろ髪を引かれつつ、お母さんが用意してくれた豆ごはんと赤飯の「お弁当」まで戴いて次の目的地へ。
何せ、この日は福島から岩手県大船渡までの移動で、立寄りたいところもたくさんあります。時計を気にしながら亘理ICから仙台東部道路へ入り、一気に石巻へ。ここで最初に訪れたのは門脇小学校でした。石巻も大きな被害が出て、この小学校も火災に見舞われて当初は黒焦げの校舎が無残な姿を見せていました。今はシートで囲われ全容をみることは出来ませんが、すぐ近くの慰霊碑には慰問に訪れる人が後を絶ちません。
次に向かったのが大川小学校。ここは昨年初めて訪問した場所ですが、今でも全く変わらずに当時の悲劇を無言で物語っています。北上川に沿うように建てられ、川を逆流してくる津波に飲み込まれた小学校です。生徒が裏山へ逃げよう、といったのにも関わらず校舎内に留めた大人(教師)の判断で多くの生徒が命を失くしたと、裁判にもなっています。どこへ行っても、こんなにたくさん小さな子供の墓碑名を見ることは無いと思います。ねじ曲がった通路、がらんどうになった教室・・・あの日から時間が止まっていました。釜石の中学校では先生の言う事を聞かず、裏山に避難した生徒のお蔭で1名の職員さんを除き全員が助かりました。釜石の奇跡として語り継がれていますが、ここは小学校です。小学生だから先生の言う事を信じて疑わず、校舎にいたら大丈夫、と思い込んだんでしょう。何でもかんでもマニュアル通りに、というのは時と場合によってむしろ手枷足枷になってしまいます。だからこそ「津波てんでんこ」という教えを盛んに訴えています。津波が来たらとにかく高い所へ逃げろ、その時はバラバラになっても、後から絶対会えるから後戻りはするな、という教えです。耳にされた方もいらっしゃると思いますが、恐らく被災体験者の講演では必ずこの話が出ていると思います。
今回の参加者の中には元教職者やPTA関係者も何人かいらっしゃいました。恐らく自分が当事者だったらどういう判断をしたんだろうと自問自答されたかもしれません。今後の防災・減災教育で何を伝えようかと思い巡らせた方もあるかも知れません。この悲劇を後世に語り継ぎ、防災教育などで活かすことが犠牲になった子供たちへの何よりの供養になると思います。
またしても重い空気に包まれた一行は女川町へ。町の中心部へ、とも考えたものの移動距離を考慮して断念しました。向かったのは指ヶ浜漁港。ここでは銀鮭やホタテ、ホヤなどの養殖をしており、ブログでも再三ご紹介した「まんちゃん」の暮らす集落です。現在、指ヶ浜仮設住宅には12世帯が生活しています。本来、今年の初めには復興住宅に移る予定が工事の遅れで年内ギリギリ化、来年になると伺いました。まだ当面は不便な仮設暮しが続くようです。丁度、養殖の銀鮭にエサをやる時間だとご主人さんと息子さんが船に餌を積込む作業を見学させてもらいました。漁港の隅には・・・ありました!昨年お届けした2本のアルミ箱。あれからずっと活躍しているようで、「これがあるから本当に助かってるよ」と笑顔で話してくれたのが何よりの喜びです。
ここでは少し店開き。まんちゃんが手作り小物を作るための布地や、仮設住宅の皆さんへ消耗品をお渡ししました。先月から銀鮭の水揚げ(出荷)も始まり、浜はこれから活気に溢れます。今度来る時は午前中においで、そうしたら船で養殖生簀へ案内するから、と有難いお言葉も戴き、また近い内に再訪する約束をして女川を後にしました。来た道を戻り、大川小学校を通過して三陸道へ入り、終点の登米東和ICまで突っ走り、一般道で南三陸町へ。折角ここまで来たら、と南三陸さんさん商店街へ入り、お待ちかねの夕食を取りました。ここの名物は「きらきら丼」という海鮮丼で、季節によって旬の海産物が取り入れられますが、丁度5月からは「ウニ」が盛られた「きらきらウニ丼」が始まっていました。お値段は¥2,500と高目ですが、新鮮な山盛りの海鮮には納得です。たまには自分へのご褒美に、と何の根拠も無い理由を付けて迷わずウニ丼を頼んだ自分がいました。ウニが苦手な人も海鮮丼や刺身定食など、それぞれ好みのものを頼んでいましたが、中にはカレー屋さんに飛び込んだものもいたとか。ま、それも良し、としましょう。時間も遅かったので既に閉店しているところも多かったですが、何とか滑り込めてやれやれです。
防災庁舎も依然として残っています。最早、これ以外に目立った建物は殆どありません。
南三陸を出る頃にはすっかり暗くなり、ひたすら45号線を北上。南三陸町、特にこの志津川は嵩上げ工事の真っ最中で道路の両側は8mほどの土の壁になっています。前回と道路が変わったり、回りの景色も変わっているので道を間違わないことだけを念じ、ひたすらハンドルを握ります。気仙沼を過ぎ、陸前高田に入る手前で空がやけに明るいことに気付きました。そう、あのベルトコンベアがライトアップされていたんです。昼間は何度も見ていましたが、夜に見るのは初めてです。名古屋港に「名港トリトン」と呼ばれる橋があって、これも夜間は照明が点くんですが、それよりも遥かに明るく、まるで吊り橋のようなその光景に圧倒されました。コンベア以外は真っ暗闇の旧市街地を通過し、漸く大船渡市へ。一本松も後日見ることにして取り急ぎ今回の宿泊先である「フレアイランド尾崎岬」へ。設備の充実したキャンプ場で、あすなろでも何度か利用させて戴いています。何せリーズナブル。資金が乏しく、全て自己負担で参加してくれるメンバーには安く、しかも快適に過ごせる宿泊先を確保するのも大切なんです。その点、ここは打って付けなんですが、問題は入浴時間が午後9時までであることと、食事の提供が無い事。この日も大船渡市の外れにあるスーパー銭湯でお風呂を済ませて戴きました。女性陣はコテージだったので風呂付ですが、男性陣のバンガローは2段ベッドで風呂は管理棟まで歩いて行かなくてはなりません。敷地内には赤崎中学校の仮設校舎も建っており、GWにも関わらず半月前に予約しても追加した14人分の宿泊が確保出来たのも有難い反面、まだここがキャンプ客のニーズが少ないのか、と淋しい気持ちになります。ロケーションも最高で、眼下には太平洋、グラウンドや宿泊棟の近くには鹿も出て来る自然一杯の場所です。機会があれば是非ご利用下さい。部屋に入ってからも雑談して夜は更けていきましたが、長旅の疲れもあり、午前1時過ぎには全員深い眠りに落ちて行きました。
さて、日が変わって4日(月)。今日は釜石で子供さんたちにイベントを行います。ここから釜石まで約70km、準備時間から逆算して7時30分出発です。途中、唐丹駅前で今回の窓口を引き受けて戴いた難波さん、そして隼人君の両名が出迎えてくれ、勇人君を先頭に4台の車列が会場へと向かいます。唐丹駅から見下ろした風景もかなり変わっており、遠くに見えていた学校の校舎も跡形なく撤去されています。それでも電車が開通したため、駅舎は綺麗になっていました。走っていると釜石大観音様が見えて来ました。2011年の10月、あそこで初めて勇人君と出会ったんだな、などと思いに耽っているうちに今日の会場となる「平田漁港」へ到着です。事前に難波さんが漁協さんに使用許可を取って戴いており、早速漁協施設のまん前で設営開始!取り敢えず役割分担をしてあったので、各自担当の設営・準備をテキパキとこなしてくれます。振舞いコーナー、ゲームコーナー、プラレール・・・勿論、適材適所に配置したつもりですのでスムーズに行くのが当たり前なんでしょうが、「あれが無い」「これが無い」と大騒ぎしながらの準備、これもまたあすなろらしくていーや、とあくまでもポジティブに。準備には毎回お世話になっている駄菓子屋さんの梓さん、その娘さん2人、ご家族と絆釜石の新野さんが手伝いに来て戴いていました。準備段階からちらほら家族連れの姿が増えてきました。この時点で天気は少し雨が降ったり止んだり、という微妙なものでしたが、そんなことはお構いなし。無事イベントがスタートしました。一番目立つ場所に設置したトランポリンはやはり一番人気。ゲームコーナーにも子供たちが列を作り始めます。難波さんと梓さんが告知チラシを作って呼び掛けて戴いたようで、本当に現地の仲間の有難さを痛感します。あとは余計な説明も不要ですので、イベントの様子をご覧下さい。
これらの写真は準備風景です。ボールプールやプラレールはみっちゃんをはじめたくさんの方からご提供戴いたものです。トミカも人気で、子どもよりむしろ担当の大人の方が夢中になっているのを私は見逃しませんでした。(*^_^*) 振舞いコーナーのメニューは定番の四日市とんてき、焼はまぐり、綿菓子に加え、今回参加してくれた中学校1年生のこころちゃんの提案で餃子皮を使ったミニピザ、渡邊さんによるイチゴ大福、そして地元女性陣による握り立てのおにぎりとバラエティに富み、漁港にいい匂いが立ち込めました。もちろん、来場者よりもあすなろスタッフが我先にパクついていたのは言うまでもありません。(^_^;) 当日は釣り大会も同時開催したんですが、予想に反してお母さんたちが夢中になっているのには驚きました。釣果は残念ながら尾ひれのついた魚は釣れず、カニ1匹とホヤ(!)1個だけであったことをご報告しておきます。またリベンジやな〰。
少しでも会場の雰囲気が伝わりましたでしょうか?最早、「支援」じゃないんです。一つの場所で一緒に食べたり遊んだりして楽しい時間を共有することで一体感も生まれます。皆さんからご提供戴いたおもちゃ、協力金で買わせて戴いた食材、全て無償の善意でこのような活動をさせて戴いています。食べたいものは数に余裕があれば好きなだけ食べ、欲しいおもちゃがあれば自由に持ち帰ってもらう。そんなスタンスで毎回たくさんの子供たちの笑顔を見せてもらえます。一緒に来場した親御さんたちもこの時ばかりは何もかも忘れて楽しんでもらいたいと心から願っています。
さてさて、今回は勇人君にお願いし、「語り部ツアー」も行いました。初めての参加者、是非とも!という希望者を募り、会場の留守番組を残して15名がバスに乗り込みました。忙しい中、勇人君が用意してくれたパンフレットです。
中には勇人君が旅行会社の人だ、と思ったメンバーもいたようで、それだけ立派なパンフレットを作ってくれていました。被災者数、発災当時の写真なども盛り込み、これだけでも十分お土産(?)になります。
最初に案内してもらったのが鵜住居の常楽寺。ここには慰霊碑が移設され、本堂も新しく建て替えられています。全員で花と線香を供え、犠牲者の冥福を祈らせて戴きました。
この鵜住居地区も急ピッチで嵩上げ工事が進められています。聞く所によると、釜石で開催決定となったラグビーのワールドカップの会場がここから近いから、とのこと。然し、勇人君の言葉だと釜石のラグビー人口は数人だとのこと。かつて一世を風靡した社会人チーム「新日鉄釜石」は廃部となり、2つの学校にラグビー部があるからその部員だけだ、というのです。一つの復興の起爆剤になれば何よりですが、まだ住民との温度差は大きいようです。
続いて訪問したのが大槌町役場。過去にも何度か訪れた場所でしたが、改めて止まったままの時計を見ると当時の情景がフラッシュバックしてきます。
上の4枚の写真は2011年7月に初めて大槌町へ入った時のものです。
この4枚が今回のもの。フェンスで囲われ、中の様子は解りませんが慰霊碑も設置され、周辺の整備はかなり進んでいました。4年の月日を長いと感じるか早いと感じるかはそれぞれ異なるでしょうが、それでも少しずつ復興に向けては動きだしているようです。
その次に行ったのが「ひょっこりひょうたん島」のモデルとなった蓬莱島でした。震災後、島まで堤防が作られ、干潮時には島へ渡ることも出来ます。ご存じの方もみえるでしょうが、実は私は昨年一度上陸を果たしていたんです。今回が2度目の上陸となったんですが、おそらく2度上陸した三重県人は自分が最初だろう、と自負しています。ここには航海の安全のための灯台と小さな境内が設けられています。鳥居は根元から津波で押し曲げられ、今回は基礎の部分しか残っていませんでした。社の中はそのままで、天井にも穴が空いたままでした。
最後に訪れたのは山田町。ここへは三重県からボランティアバスも運行していた縁のある場所です。活動報告書を書き始めた頃には再三屋根の上にポルシェと船が打ち上げられている写真を掲載しました。「鯨の博物館」の前も大きな池のようになっていたのを思い出します。
上の5枚、2011年5月に撮影したものです。中央右の写真に写っている丸い屋根が鯨の博物館。それを包み込むかのように盛り上げられた瓦礫の高さがこの地の被害の大きさを物語っています。下の老人福祉施設も既に取り壊されて更地になっています。
勇人君の説明では、この山田町は東京から公共交通機関を使って最も時間が掛かる場所だといいます。それほど不便な地域ですから発災当時はなかなか救援が来なかったそうです。ピンポン玉位のおにぎりを2個渡されて3日分の食糧だと言われたり、想像を絶する避難生活を余儀なくされた話はやはり現地の人が話してくれる「実話」は真実味が違います。その情景が伝わってくるんです。今、東北のあちらこちらで「語り部」さんのガイドツアーが催されています。もし現地へ行かれることがあれば、どうかそのツアーに参加して下さい。マスコミからは知り得ない「事実」を知ることが出来ます。
約3時間の行程を終えて平田漁港へ戻ると既に後片付けも終わっていました。
時間をもてあまし気味のスタッフに交じって、見覚えのある方が。勇人君のご両親がわざわざ我々のために船を出してたった今採って来たばかりの三陸ワカメ・昆布、そして貴重なメカブを大量にお持ち下さったんです。ここのワカメや昆布は絶品です。歯ごたえも良く、味も濃厚な気がします。三重でもワカメの養殖をしていますが、その種は三陸から買っているという話も聞きましたが、やはり育つ環境の違いなんでしょうね。だんだん舌が肥えていくのも困ったもんです。実は、ご両親も長年住み慣れた浜から今年引っ越しをされます。所属する漁協も変わりますので、ワカメの養殖は今年が最後。そのため、どうしてもみんなに食べさせたかったとのことです。そのお気持ちだけでも有難く、やはり噂に聞いていた三陸の漁師魂は本当なんだと実感しました。お話したのはほんの僅かな時間でしたが、お父さんのされている釣り船の客としてまたお邪魔することを約束しました。
イベント会場に別れを告げ、本日最後の訪問地、鵜住居の「絆釜石」さんへ移動です。今回の活動の2つ目の目的は子供たちと目一杯楽しむことと、現地の方との交流を深めることでした。居酒屋もやってみえる絆さんのお店をお借りし、交流会の始まりです。近くのスーパーで食材を仕入れ、屋外ではバーベキュー、室内では絆さんが用意してくれた刺身盛りがスタンバイ。勇人君の乾杯の発声でツワモノどもの宴が幕を開けました。折角だから、と戴いたばかりのワカメを早速しゃぶしゃぶにして戴きましたが、その美味しいこと!鍋に湯を沸かし、ワカメをさっとくぐらせてポン酢で食べるだけのシンプル極まりないものですが、どれだけでも食べられる、とはこのことを言うんでしょうね。大きなスチロール一杯に詰まったワカメもあっという間に完売です。とりわけ女性陣には大好評でした。
今回もあすなろ名物のサプライズ企画がありました。今日の窓口になって戴いた難波さんが5月3日、初参加の高田さんが5月4日と2人が誕生日だったんです。実は、難波さんには事前にケーキの手配をお願いしたんですが、本人が誕生日だと言う事に気付いたのはその後で、今更追加のケーキを頼むのもヘンな話ですのでずっと黙っていました。買出しに行ったスーパーに花屋さんがあることは知っていたので2人分の花束を用意し、何食わぬ顔でサプライズのタイミングを窺がっていた時、偶然とはいえ、同行のみっちゃんが佐賀県のご友人に頼んでケーキを送ってもらっていたんです。こそこそと打ち合わせ、誕生祝いに華を添えて戴く事になりました。そして、今回合流して戴いた栃木の高野さん。彼は昨年7月の釜石での音楽フェスタでもステージを務めたミュージシャンでもあるんですが、彼の提案で「ハッピバースデー」の歌を娘さんに歌ってもらおうということになりました。伴奏は我社の中川君の生ギターで、いざサプライズの始まりです。全員に声を掛け、こころちゃんのリードボーカルに合わせての大合唱。偶然にも難波さんと高田さんは同い年。ガッチリ握手して一緒にロウソクを吹き消した様子は何かほのぼのとして見ているこちらが嬉しくなりました。更にサプライズは続きます。娘から母への歌のプレゼント。こころちゃんが選んだ曲がこれまた秀逸で、曲名は失念しましたが「母よ、母よ、感謝してます・・・」という内容でした。これには全員ノックアウト!中には目頭を押さえる姿もちらほら見受けられます。またこの子の歌の上手さはとても中学1年生とは思えないほど、澄んだ声、ファルセットも利かせます。やんややんやの喝采の中、続いては高野さんから難波さんへの歌のプレゼント。難波さんは知る人ぞ知る、「歌手 高野健二」の大ファンなんです。これまた素晴らしい歌声(本業は会社員ですが、バンドを組んでライブをする人ですから当然です)を聴かせて戴き、サプライズ企画は想像以上の大成功を納めました。その後も親子の熱唱、気の合うモノ同志、ソロと次々に歌が飛び出し、楽しい時間はあっという間に過ぎていきました。最後に絆さんから挨拶を戴きましたが、突然男泣きされた姿には本当に喜んで戴けたんだな、来て良かったな、と感動しました。今日のことを励みにまた明日から頑張れる、また会える日迄頑張れる、と言われた言葉は全く自分にも当てはまりました。こんな仲間がいてくれるからこそ自分たちも来ることが出来るし、遠く離れていてもどこかで繋がっているんだと思うと本当にかけがえの無いご縁を戴いている事が生涯の財産です。我々の為にご尽力戴いた難波さん、梓さん、勇人君、そして新野さん、本当にありがとうございました。
そんな訳でこの日もフレアイランドのお風呂には入れず、またもやスーパー銭湯のお世話になったのは言うまでもありません。
さて、最終日。この日は朝8時半に出発して大船渡から亘理町まで南下します。途中、「産直はまなす」さんへ立ち寄りそのまま陸前高田の中心部へ。
訪問するごとに土地の高さがどんどん変わっています。最終的には12mまで盛り土をし、それから新たに街づくりが始まります。嵩上げ工事があと2年ほどと聞いただけで気が遠くなります。
走り慣れたR45を南下し、気仙沼へ。丁度昼前だったので、港にある商業施設「海の市」で昼食を取る事にしました。気仙沼はフカヒレの名産地でもあり、この施設内にも「シャークミュージアム」が併設されています。水族館好きの自分としても是非入ってみたかったんですが、何せGWでしかも子供の日です。親子連れや観光客でかなり込んでおり、飲食店は軒並み順番待ち。またの機会のお楽しみ、としました。
気仙沼からはまた45号線で南三陸町へ入り、三陸道の登米東和ICを目指します。着た時に通った道を戻ることになりますが、暗くて見えなかった志津川の様子を見てもらおうという目論見です。
休憩に立ち寄ったさんさん商店街に隣接して物産センターや「駅」があります。このあたりはまだ鉄道が復旧しておらず、線路跡を代替輸送のバスが走っています。ここも一見すると「バス停」ですが、れっきとした「JR志津川駅」なんです。
このポータルセンターの裏手に、移転した「きりこ」がありました。南三陸では正月にこの「きりこ」を神棚に供える風習があったそうで、震災後は住民のメッセージをこのような形にして立てられていました。
そしていよいよ最後の目的地、宮城県亘理町へ。行きにも立ち寄らせて戴いたんですが、あすなろの原点とも言うべき、自分としても格別の思い入れのあるところです。参加者の中にはイチゴを買ってくれた人も何人かいたので、改めて被災からイチゴ復活までの話を直接聞いてもらいたかったんです。
斎藤さんのイチゴは現在2棟のビニールハウスで栽培されています。来年度はもう1棟増やすそうで、そこでは苗の株分けが始まっていました。自宅の中に招き入れて戴き、斎藤さんにここまでの経緯の説明をお願いしました。今思えば、辛い事を思い返させるようなことになってしまったのは私の軽率な思いによるものでしたが、それでも皆じっと耳を傾けてくれました。それまでは何故イチゴ団地に参加しなかったのかという素朴な疑問を持っていた者もいたと思います。イチゴへの想い、在宅避難者の苦労、住民間の軋轢・・・。実は、自分もこれほどゆっくり話を聞いたのは初めてでした。お邪魔する度に色々と話を聞かせて戴いたんですが・・・。消防団にも参加している渡邊さんも質問され、その聞いた話を持ち帰って何らかの形で地域防災に反映して戴けることと思います。ご家族からもお茶や摘みたてのイチゴ、お菓子や総菜までお気遣い戴き、これにも全員、大喜びでした。本当はここで今回の活動の打ち上げも兼ねてバーベキューをさせて戴く予定だったんですが、出発のリミットが迫っており、何やら中途半端な幕引きになってしまいました。ご一家の温かい見送りを受け、3日間の活動が終わりました。
とにかく慌ただしかったものの、すごく充実した活動であったと自分では思っています。ただ、GWということもあって旅行や外出している家族があったり、事前の準備があまり時間が取れなかった事など、相変わらず反省点はいくつも出て来ます。これを繰り返さないよう、もう少し綿密に企画を練る必要がありますね。人数も多かったため、個人個人の目的も考え方も違うのは仕方のないことですが、やはり何度か参加して顔見知りがいる人はその人とゆっくり話もしたかったでしょうし、物足りなさもあったかと思います。ただ、イベントが終わったらそれで帰るだけ、というのは本来のあすなろの意図することには反しますので、もっと現地の人達と交流を深める内容にしたいと感じました。1ヶ所か2ヶ所で十分な時間を取れればそれも可能ですが、今回は日程が長かったのであれもしたい、あそこにも寄りたいと欲張ったのは現地の方にも、また参加者にもご迷惑をおかけしたと深く反省しています。それでも殆どの人達が連絡先の交換をしたりして、また新たな交流が始まったのも事実です。FBでもどんどん繋がり、メッセージのやり取りを見ていると次回一緒に活動する時はもっと親しく交流出来るんだろうな、とワクワクします。平素連絡を取り合う事でそれぞれの取り組み方や考え方も見えてくるでしょうし、今回のような盛り沢山な内容にせず、1ヶ所の仮設住宅に絞って活動するとか、子供向けのイベントに絞るとかすればまた新たな方向性も見えて来ると思います。今回も工作教室を準備していたんですが、3つのうち2つは出さず仕舞いでした。こちらのスタッフが視察ツアーに大半が回ったためです。ツアーが無ければ出来たかとは思いますが、やはり現地ガイドさんの語り部ツアーは必須でした。だからこそ中途半端になってしまうんですね。ツアーを組むならそれに全員参加にするとか、現地の方にお願いして引き継げるようにするとか、今後の課題が少し見えて来ました。事前の打ち合わせの方法が課題でもありますね。あすなろ応援便、第40弾にしてまだまだ発展途上です。どうか、参加するしないに関わらず、皆様の忌憚の無いご意見をお聞かせ下さい。そして、これからもあすなろ応援便を温かく見守って下さい。
長い活動報告を最後までお読み戴き、本当に有難うございました。
樋口さん、お疲れ様でした。
荷物は無事、準備に間に合ったでしょうか。
締切に遅れて申し訳ございませんでした。
また何かありましたら、ご協力させて頂きたいと思います。
お疲れ様でした。報告書は自分が参加した気持ちで拝見しました。
荷物は準備に間に合ったでしょうか。
締切が過ぎてしまい申し訳ございませんでした。
定期的には難しですが、またお手伝いできればと思います。
暑くなってきましたので、お身体にお気を付け下さいませ。
第40弾 お疲れ様でした。報告書もありがとうございました。
自分が参加してる気持ちで拝見いたしました。
ところで荷物は準備に間に合ったでしょうか。
締切過ぎてしまい、申し訳ございませんでした。
定期的には難しいですが、少しづつお手伝いできたらと思います。