人生、「間の悪い」ことって結構ありますよね。入念に下調べや準備をしていて、いざその当日になって全てが水の泡になってしまう・・・。恐らく、誰しも一度はそんな経験をお持ちだと思います。実は、今回ご報告する第38弾が私にとって「間の悪い」ことが起こってしまいました。
今回は宮城県亘理町の個人宅の庭先をお借りしての配布会でした。このお宅は過去にも幾度となくブログや報告書でも取り上げさせて戴き、恐らく過去3年半の間に最もお邪魔した回数が多いところです。石川県のKさんから戴いた一通のメールがきっかけで訪問させて戴いたんですが、我々が初めて伺った時、周囲は何もかも津波で流され、このSさん宅の近隣にも数件が残っていただけで見渡す限り何も無い殺風景な景色が広がっていました。すぐ近くには百数十世帯の集落があったそうですが、我々が目にしたのは家の基礎だけ。数件あった民家もことごとく1階部分が壊滅的な被害を受け、人の姿を見かけることもありませんでした。恥ずかしい話、この辺り一帯が「仙台イチゴ」の産地だと知ったのは暫くしてからでした。近所には5~6軒の家に居住していたと記憶していますが子どもの姿は皆無。このS家の3人だけが被災後も仮設住宅に移らず、被災した自宅の2階で親子4人で生活していました。ご両親も無事でしたが母屋が全壊し、仮設住宅への入居を余儀なくされていました。届けた物資の中からガラスのコップを持ち出して、それで遊んでいる幼い子どもさんに心が痛み、何とかこの子たちに元気になってもらおう、笑顔になってもらおう・・・そんな想いから私の「亘理詣で」が始まったと思います。過去の報告書をご覧戴いてもお解りのように、過去37回は岩手の山田町から福島の南相馬まで、あちらこちらと訪問させて戴きました。何度もお邪魔した所もあれば一度だけ、という所もあります。もちろん気持ちの上では一度行った場所へは2度・3度と行きたくなるのですが、窓口の方が転居したり、現地からのご紹介や要望により新たな場所へ行くこともあります。仲間内からはなぜS家だけ訪問回数が多いのか、とヘンに思われているんでしょうが、やはり自分の中に特別な想いがあるからに他ありません。
最初の配布会。2011年7月でした。次女のKちゃんが保育園の年中さん、弟のO君はまだオムツをしていました。
下の写真は2011年8月の配布会と周辺の様子。まだ被災した建物が残ったり、線路も不通でした。左上の黒い建物が震災前に完成したばかりの新居でしたが、この頃にようやく1階の修理が始まっていました。
最初は前述した通り、近隣に遊ぶ友達がいないという不憫さがありました。その後、いわゆる「仮設住宅居住者」と「在宅避難者」に対する行政の支援の在り方に疑問を持ち、更に齢60を越えて再度生業であるイチゴ栽培、それも昔ながらの露地栽培に取り組んでいるお父さんの姿に微力ながら応援したい、そのイチゴが実るまでの過程を見届けたい、そんな気持ちが強くなったんです。岩手の帰り道や、仕事で仙台へ行った帰りになるべく立寄る時間を作り、いつしか「親戚」のお家へ行くような気分になっていました。配布会も何度か開かせて戴きましたが、電話するにも不自由な頃からあちらこちらへ連絡していつも数十人の方が我々を迎えてくれました。そのため、一時は良からぬ噂を立てられ、「あの家だけ物資が届いている」とか「支援長者だ」と言われたこともありました。確かに訪問回数は多いかもしれませんが、我々も全国から寄せられたご厚意の品々を1軒だけに渡すということは出来ませんし、また仮にそうしたくてもS家の皆さんが受け入れないと思います。自分達より近所の人へ、という姿を目の当たりにしているからこそ長くお付き合いさせて戴けるんだとも思います。訪問することが誤解を招いて迷惑をかけるのならば、と配布会をせず「あすなろ」の休憩所のように近くへ行ったら顔を出す程度というちょっと距離を置いたんですが、今回は別でした。復興住宅が完成し、知り合いが戻ってきたこと、近所の家も修理が終わって徐々に住民が増えて来た事。そして、どの世帯もその日暮らしで日用品も買えないような生活不安を抱えていること。前にも聞いた話ですが、仮設を出て新たな生活が始まると必要な身の回りの品は全て各自が揃えなければなりません。狭い仮設住宅では置き場所の問題があってタンスも無い、布団も余分には無い、正に一からのスタートです。そのような状況を聞き、手元には大量の日用雑貨や家具があります。これで条件が揃ったとばかりに久し振りの配布会開催となった次第です。
今回は当初4t車とワゴン車で行くつもりでした。ところが直前に名古屋の方から家具類の提供があり、更に出発前日になって急遽仙台行きの輸送依頼まで飛び込んで来ました。結局4t車では積み切れないと判断し、急遽トラックを大型車に変更。最終的には大型車ほぼ満載になりました。
この大量の物資の中に愛媛から4t車一杯お預かりして来た「百円均一雑貨」があります。一口に百均の商品といってもその種類はご存じの通りものすごいバリエーションです。バケツやタッパーなどのプラスチック製品、手芸用品や文房具、工具に調理用具に、とまるで「宝箱」をひっくり返したような楽しさも加わりました。仕分けの時点で小さなタワシや荷締めベルトなどは自分でも欲しいな、と思いながら作業しましたが、来場された皆さんも同じ気持ちだったと思います。庖丁や缶切、スポンジなどもあっという間になくなり、両手に持ち切れないほどの物資を持ち帰り、また出直して来た人、軽トラックに冷蔵庫や洗濯機を積んで満面の笑みで帰って行く人。何せ、過去に較べて格段に来場者が多かったそうです。逆に考えれば、3年半経って漸く仮設を出られたものの、復興住宅や自宅では家賃や光熱費などは当然乍ら100%本人負担になります。それが理由で家賃無料の仮設住宅を出たくても出られないという方もあります。そんな状況ですので身近な日用品や消耗品は当然需要が大きいです。
午前8時半頃から庭先にブルーシートを広げ、大型車一杯の物資を次々に卸して品目毎に並べました。時間にして1時間少々。今回はスタッフ7名+住民5名程で準備をしましたが、流石に熟練(?)揃いで、無駄な動きがありません。運ぶ人、開封して中身を見易くする人、とそれぞれが言われなくても動けるのが我が「あすなろスタッフ」なんです。準備も終わり、いよいよ開会予定時間が迫って来た時に携帯電話に着信!見慣れぬ番号に首を傾げながら応答すると仙台の荷卸し先様からでした。先に書きました通り、今回は仙台行きの荷物を積んでいます。(こうすることで燃料代や高速代が負担軽減になります。)
ましてや今回は配布会を行うことも荷主さんに了解を戴き、夕方に納入させて戴く予定でした。ところが電話の主は「今日は午前中で会社を閉めるから、昼までに来てくれんかなぁ。」と鬼のような言葉が・・・。どうやら荷主さんとの連絡が伝わっていなかったようで、先方が低姿勢に出られた以上、こちらも断る訳には行きません。泣く泣くこれから盛り上がるであろう配布会場を後にし、仙台へ向かいました。H君が同行してくれたのがせめてもの救いで、本当に間が悪いと感じた次第です。仙台ではものの30分程で荷卸しを終わり、受け取りのサインを戴く時に先方の社長さんが「こんな大きなトラックで三重から来てくれたんか?」と不思議そうな面持ちでしたので、応援物資を積んで来たこと、今現在配布会の真っ最中であることなどをお話ししていると「有難うね。未だに支援してくれて。」その一言でモヤモヤした気分が一瞬で吹き飛びました。自分の所でなくても我々のようなボランティアに対して温かい言葉をかけてもらえるのは何よりです。こんなお客さんの所ならまた来たいな、というのが正直な気持ちでした。
さて、ダッシュで配布会場へ戻ると道路上に乗用車がかなり停められています。いつもは殆ど車が通らない、むしろ人の姿を見る事もないような道が通行止め状態です。いまだかつて、こんな光景は初めてでした。この車は全て配布会に来てくれた人達だったんです。少し離れた集会所の駐車場にトラックを停め、Sさん宅へ向かって歩いていると大きな袋を持った人達とすれ違いました。みんなニコニコ顔で、以前の配布会で顔を覚えてくれていた人からは「また(配布会を)してくれて有難う」とか、「仮設出たよ」と声を掛けてもらいました。会場ではかなりの物資が無くなっており、既に料理長Mさんたちが「振舞い」の四日市とんてきと焼きハマグリを楽しんで貰った後でした。丁度昼時で人の波も納まったのを見計らってお母さんから昼食への誘いがありました。この時期は必ずご馳走して戴く郷土料理「ハラコ飯」です。我々の為にと炊飯器2台分用意して戴いており、グルメのH君は何と3杯も平らげていました。私も前回2食分戴いたので今回は遠慮して2杯でしたが、何度食べても飽きる事のない味に大満足でした。持参したとんてきもオカズとして出され、ハラコ飯と四日市とんてきという何とも贅沢な昼御飯になりました。
午後の部開始までのひととき、ビニールハウスのイチゴを見せてもらいました。以前修理してお届けした耕運機などが無事に役目を果たし、見事な畝(苗床)が出来ていました。そして元気に育った苗が整然と植え付けられています。「久し振りだったから手順間違えた」と笑って説明してくれたお父さんの日焼けした顔は生き生きしていたのは言うまでもありません。順調に行けば年末か年明けには収穫出来るそうです。ここで作られている品種は「もういっこ」。一つ食べればもう1個食べたくなる、ということから名付けられたそうです。かなり以前の報告書にも書いた覚えがありますが、こちらへ伺うようになってからいつも「何も御礼が出来ないのが申し訳ない」ということを仰っていました。我々はたまたまご縁を戴いてお邪魔するようになっただけで、物資を提供して戴いたのは全国の皆さんだから、と言ってもいつも有難い、申し訳ない、と感謝して戴きます。そんなに気にされるのならとこちらも気兼ねしつつ、「それじゃ、イチゴ栽培が復活したら4パック入り1ケースの仙台イチゴ下さい!」とお願いしました。初めてお会いした時は大切に守って来たビニールハウスも自宅も流されて表情に陰りを感じたお父さんに少しでも励ましになれば、と安易な気持ちで返した言葉だったんですが、「もう一度イチゴをやりたい」と言われた言葉は本物でした。津波を被った土地に毎日水をかけて塩分を落とし、手始めに野菜で土の様子を伺いながらとうとうここまで辿り着かれました。四国からやって来た「里芋」もすっかり定着し、近所の農家さんへも「種芋」として配られ、今年もまた立派に育っていました。
正直なところ、僅か3年余りでここまで復活することになるとは夢にも思っていませんでした。それほど、被災直後の状況は悲惨でした。目標を持って日々努力すれば必ず報われるんだ、と改めて感じた次第です。また近いうちに真っ赤な実を付けたイチゴ畑の画像をご覧戴けることと、今から楽しみにしています。露地物の仙台イチゴ、復活までいよいよカウントダウンです。
さて、午後の部も引き続き住民の方が来られました。転居されて今は離れた所に住んでいる、という方も遠路はるばるやって来ました。私自身は見ておりませんが、スタッフの話では午前の部はそれはもう大賑わいで至る所から歓声が上がっていたとのことですが、午後の部はのんびり、まったりという感じで過ぎて行きました。物資を持ち帰った人が果物やお菓子などの「差し入れ」を持って来てくれたり、お父さんたちは車座になって農業談義(?)に花を咲かせています。支援物資の布団にもぐりこんで遊ぶKちゃん、昔懐かしい「乳母車」でスタッフと嬌声を上げるO君、お母さんと一緒に着物に袖を通すSちゃん。ほのぼのとした雰囲気が充満しています。
なぜかここに来ると誰しも無邪気になれる気がします。ふざけあったり、冗談とも本音とも解らない漫才のような会話を楽しんだり、親子ほど離れた子どもさんと真剣に遊んだり・・・。被災地であることを除けば、全く楽しい居心地のいいところなんです。それでも我々が帰った後、子どもさんたちが「今度はいつきてくれるの?」と聞かれるそうです。賑やかだった分その反動で淋しかったりするんでしょう。そんな話を後日聞くとやはりまた会いにに行きたいな、となりますよね。我々も帰り道はいつも後ろ髪を引かれる思いなんですから・・・。
さて、半日に及ぶ配布会も滞りなく終了し、畑で採れたミニトマトやインゲンなどをお土産に戴き帰途に就きました。これで第38弾の報告は終わりとなるんですが、今回、もう一つご報告させて下さい。
震災後、福島第一原発の爆発の影響でずっと通行止めだった国道6号線が全面開通となりました。今回、初めて東京から常磐道を経由し、6号線を通って亘理へ入りました。常磐道の終点「常磐富岡」から6号線に入ったんですが、沿線の民家は全て防護柵が設置され、所々にパトカーが待機しています。正に「ゴーストタウン」と言われる通り、生活感は全くありません。雑草が伸び放題の家、津波の被害を受けたまま3年半放置されている店舗。駐車場に止められた車も放射能に汚染されてて撤去も出来ないそうです。私自身、震災後に一度だけ福島第4原発へ荷物を運ぶために通行許可を取ってこの道を走ったことがあります。その時(約1年半程前)から、全く様相は変わっていませんでした。時間が止まっているんです。特に「帰宅困難区域」では家屋はもちろん、集落へ入る道にもバリケードが置かれ、完全に「封鎖」されています。前回通った時はこんなバリケードはありませんでした。住民が居ないことを幸いに、空き巣が横行したために設置されたものだとも聞きました。住宅は人が住んでいなければどんどん荒廃します。6号線沿いのこの地域は津波の被害が無くても原発の影響で避難命令が出され、地域によってはそのまま3年以上も自宅に戻ることすら許されない所があることはご高承の通りです。数日間の避難を誰しもが想定していたでしょうから家財道具をはじめ何一つ持ち出せないで着の身着のままで飛び出しています。それを見越した空き巣や窃盗団がやりたい放題だったようです。一時帰宅を許可された住民が朽ち果て、荒らされ尽くした我が家を見て絶句した、という記事も目にしました。他人の不幸に付け込む輩には必ず天罰が下るであろうと思います。まだまだ放射線量も高く、いつになったら元の町並みに戻るのかは解りませんが、未だにこのような「取り残された場所」があることは皆さんにも記憶に留めて戴きたいと思います。
何度も申し上げた通り、今回は一番盛り上がっている場面の写真を撮ることが出来ませんでしたので今一つ雰囲気が掴み辛いとは思いますが、皆様からお預かりした物資によって本当に沢山の方に喜んで戴きました。これから復興住宅や新居への移転が始まるにつれ、まだまだ生活用品や家具類のニーズも出て来るものと思われます。今後もこのあすなろのホームページで何かとご協力のお願いをさせて戴くことになると思いますが、どうか長く細く、復興地を応援して下さい。以上をもちまして第38弾の活動報告書とさせて戴きます。最後までお読み戴き、誠に有難うございました。m(__)m