5月もあっという間に最終週となりました。光陰矢の如し、と言いますが最近は特に時間が経つのが早く感じられます。楽しい時間は早く過ぎる、充実していると早く過ぎるって良く耳にしますが、連日仕事に追われて気が付けば深夜・・・。単に仕事の段取りが悪いだけなのかも。とは言うものの、今回ご報告する第35弾の2日間は充実して楽しい時間だったから短く感じられたんだと思っています。また例によって取り留めのない文章になるでしょうが、最後までお付き合い下さい。
今回は5月23日(金)の夜8時前に出発となりました。当日まで交替要員が見つからず、最悪は往復一人でハンドルを握る覚悟でした。しかし、直前に我社の料理長、Mさんが同行を申し出てくれ、事なきを得ました。直前にN先生が久し振りの参加表明をして戴いていましたので、もしMさんの参加が無ければ昨年GW以来の二人旅になる所でした。(^_^;) いや、決して二人旅がどうこうというのではなく、あくまでもボランティア目的ですから疾しい気持ちは微塵もないんですが、世間から見れば有らぬ噂を立てられても申し開き出来ませんよね。私だけなら「武勇伝」になるかも知れませんが、相手方にとっては迷惑以外の何物でもないことは百も承知です。しかも、私は女性と1対1がすごく苦手なんです。(本当です!) だからこそMさんの参加に胸をなでおろしたんです。
さて、そんなドタバタもあって午前1時に東名高速/港北PAでN先生と合流、Mさんと交替で運転して陸前高田に午前9時頃到着。高速の割引減額の影響か、3月よりトラックの数が少なかったような気がします。
陸前高田で心強い「現地スタッフ」のⅠさんに到着の連絡をし、時間調整のために前回から気になっていた、「八木澤商店 一本松店」へ。あの奇跡の一本松の近くで物品販売とカフェを併設されているお店です。地元の醸造メーカーだけに醤油・味噌をはじめ様々な商品、オリジナルグッズなどが並んでいます。店員さんと色々話をしてこれから伺う三日市仮設住宅の場所を聞いたら、なんとこの店員さんがそこの住人でした。訪問の内容を説明すると、悔しがることしきり。何だか申し訳ない気持ちになりましたが、すぐに自治会長さんに連絡してくれ、入口まで出迎えて戴く段取りをして戴きました。偶然とは言え幸先の良いスタートです。
陸前高田では嵩上げ工事の真っ最中です。ベルトコンベアが伸び、山を削った土を市街地へ送りこんでいます。まだまだコンベアの増設も進められています。
広田半島に向かうアップルロードを進むと目印のツルハドラッグ、その先に自治会長さんが待って戴いてました。軽トラックに先導され、第1目的地の三日市仮設に到着。ここへの訪問目的は「タオル」のお届けでした。 ブログにも書きましたが、三重県三重郡にある「朝日タオル」様から新品のタオル・バスタオルをご提供戴いたんですが、フェイスブックを見ていたら「三陸復興応援団きたかみ」のMさんがタオル募集の記事をアップされており、提供を打診したところ「陸前高田ひのきしん隊」のYさんに繋げて戴き、この仮設住宅をご紹介戴いたんです。ここではご婦人方がタオル1枚1枚に手作業で一本松の刺繍を施し、全国へ販売されています。そのためのタオルを希望されていました。こうしてご提供戴いた物資と、それを希望されている方のマッチングが上手く行った時は何より嬉しく、同時にご縁が出来る事に感謝しています。
三日市仮設住宅は21世帯。同じ集落で移住したため、皆さんすごく仲の良い、まとまりのある自治体でした。タオルは1枚ずつ仮設のお母さん方が手作りされていますので、大きさも形も同じものはありません。名入りのタオルや薄い生地のタオルなどを使われていたため、今回朝日タオル様にご提供戴いた新品の厚地のタオルは大変喜んで戴きました。これも販売してささやかな収入源となります。
さて、今回のスタッフは私も含めて3人。大掛かりな配布会では無く、タオルのお届けが目的だったので物資もそんなに持って来ていません。それでも出発前に陶芸家M先生からご提供戴いた花瓶や四国中央市からご提供戴いた新品の婦人服、支援金で購入させて戴いた洗剤などを並べ、同時にみたらしだんごと焼きハマグリの「振舞い」の準備を始めます。到着時には既に集まって戴いていた住民の皆さんにも手伝ってもらい、本当に助かりました。消耗品類は21世帯全戸に公平に分けてもらい、その後ゆっくりと品定めをしながら、話に花を咲かせながら楽しい時間を過ごしました。
振舞いはN先生がみたらしだんご担当で焼き始めてくれたものの、いつの間にかお母さん方にポジションを奪われ、半ばからはまかせっきりになってしまいました。(^_^;)
元気な声で「3本100円~❤」と明るく笑うお母さんには思わず「本職ですかぁ?」とツッコミを入れたり、ハマグリを食べながら地元「広田湾」の海の幸自慢を聞いたり、この時ばかりは本当に被災されたことすら忘れるような一時でした。宴もたけなわ、というタイミングで所用を済ませて駆け付けてくれた地元のⅠさん、Sさんも加わり、仮設の集会所でお昼をご馳走になりました。すると、昼御飯を食べにそれぞれ自宅(部屋?)へ戻っていたお母さん方が入れ替わり立ち替わり「差し入れ」を持って来てくれます。お手製の煮物、自家製の漬物、カリカリ梅など、どれもこれもお世辞抜きで美味しいもので、自治会長さんがわざわざ弁当を買いに行ってもらったのが申し訳ないほど、白ご飯があれば十分なほどのご馳走でした。天気も暖かく穏やかで、キジの鳴き声も聞こえます。生まれて初めて「カッコウ」の鳴き声も聞けました。眼下には広田湾が見え、こんなのどかな場所でも、住民の皆さんは苦労されているんだと思うと胸が締め付けられます。後片付けまでお世話になり、記念写真(久しぶりに撮りました。)のあと、後ろ髪を引かれながら三日市仮設を後にしました。
さて、この後女川へ移動する予定だったんですが、翌日の朝に納入させて戴くことになり、思いがけず時間が出来ました。Sさんの提案で釜石である講演会があるから行かないかとお誘い戴き、トラックを一本松近くの駐車場に停めてワゴン車に乗せて戴いて釜石へ。前日からの寝不足もあり、三陸道に入る僅か十数分で不覚にも夢の中へ・・・。昔から自分がハンドルを握らないとすぐに寝てしまうのが私の「特技」です。目が覚めたら目的地!これは職業ドライバーにとっては最高なんです。
案内して戴いたのは釜石市内の商店街の外れにある「みんなの家 かだって」でした。ここで「詩」の朗読会があるそうです。詩といっても普通の詩ではありませんでした。釜石の活版印刷工場が被災し、瓦礫の中から拾い出した刻印を使って震災への想いを文章にしたものです。活版印刷は一文字ずつ刻印を並べて印刷するため、ひらがな1文字でも大きさ、形などかなりの量が必要です。当然、流されたりして全部そろっていないばかりか、無くなってしまった文字もあります。詩が浮かんでも、それを文章にすると字が抜けてしまったりという大変な苦労をされて十数編の詩が掲示されていました。それを作詞されたご本人が朗読されたんです。(3人いらっしゃいましたが、ドリアン助川さんだけ覚えてあとのお二人のお名前は失念しました。m(__)m)
流石に、目を閉じて聞いているとその情景が浮かんできます。切々たる想い、困難を乗り越えて行こうという力強さ、こんな機会に居合わすことが出来たのは本当に貴重な経験になりました。写真を獲らなかったので申し訳ありませんが、釜石へ行かれることがあれば是非立寄ってみて下さい。全て寄付で作られたお洒落な建物の中では企画展や、手作りアクセサリーなども陳列・販売され、100円でコーヒーも戴けます。「かだって」というのは「語って」の方言だそうです。地元の人とボランティアと観光客がこの店で「語り合う」場にしたいと名付けられたそうです。
ここで朗読会が始まる前に見ていたパンフレットに、大槌町の「ひょうたん島」の写真がありました。Sさんに無理を言って、なんとか間に合うだろう、と大槌まで!現地に到着すると、パンフレットの写真には無かった「防波堤」が島に向かって伸びています。どう見ても繋がっているように思え、ここでまたしても「好奇心」という悪いクセが出てしまいました。本当はいけないことなんでしょうが、「ひょうたん島」へ上陸してしまったんです。思ったより小さな島で、今でも鳥居はなぎ倒されたまま、お社だったであろう建物もそのまま3年の時を過ごしていました。今後、どうされるのかはわかりませんが、あの「ひょっこり ひょうたん島」のモデルになった島です。一人でも多くの人が見に来てくれることを願います。
釜石へ戻って朗読会を聞き、陸前高田へ戻った頃には午後9時を回っていました。Ⅰさんのお嬢さんも合流して晩御飯。みらい商店街にある「てるてる」というお店へ。店内には客が3人だけ・・・と思いきや、なんと店主さんが一緒に飲んでいてかなり出来上がっています。これがまた面白い(失礼)店主さんで、エビフライカレーを注文したら出て来たのが海老フライ定食。普通の天丼を頼めばめんどくさいからアナゴ天丼にしろ、水とお茶とコーヒーは自分でどーぞ・・・全てこんな調子で、終始爆笑の夕食会となりました。これまた素敵な思い出になりそうです。その夜は引っ越しして間のないⅠさんの新居に泊めて戴きました。この時すでに午前1時を回っており、我々の出発は早朝6時。それにも関わらず朝食にとおにぎりを用意してくれていたⅠさん、本当にお世話になりました。m(__)m m(__)m m(__)m
早朝6時、予定通り陸前高田を出発し、一路女川を目指します。R45を南下し、気仙沼を抜けて南三陸。まだあるだろうから、と立ち寄った志津川の防災庁舎で手を合わせ、回りを見るとかなり土が盛られてはいますが相変わらずの景色が広がります。
防災庁舎前の川も護岸に積まれたフレコンバッグが風化して破れ、中の土がむき出しになっています。これほど時間が経っても、一向に進まないのはどうしてなんでしょう。
次に立ち寄ったのが、ずっと気になっていた喫茶店、「珈琲神社」でした。実は、まだ避難所として使われていた頃の「ホテル観洋」に物資配布でお邪魔した際、この喫茶店で津波が来る直前に湾の底が見えた時の写真を撮られたと聞いていたんです。まだ早朝で開店されていませんでしたが、運良くマスターの姿が見えました。写真を見せて欲しいとご無理を言ったところ中に案内して戴き、コーヒーまでご馳走になりました。テラスから見える海、高台にあるので眺めは抜群です。写真をみると確かに海底が見えています。志津川町を壊滅させた津波の引き波の時だったそうで、その後の写真には流された家屋や、流出した瓦礫が写っていました。マスター、どんな気持ちでシャッターを押されていたんでしょうか・・・。
この海の底が見えたんです。画像左手に志津川があります。
マスターのご厚意でコーヒー代を受け取って戴けなかった代りに、自家焙煎のコーヒーを購入しました。一袋ずつ味の説明があり、「復興珈琲」のロゴが押されていました。私自身、無類のコーヒー好きですが、このコーヒーだけはいつまでも取っておくでしょうね。
少し時間が押してきたのでR45号からショートカットで山越えです。時々調子の悪いカーナビに騙され(?)ながら辿り着いた先にはなんと、あの「大川小学校」があるではありませんか。ブログやFBなどでここで多数の小学生が命を落とし、今尚行方不明の児童が数名。その母親が免許を取得して重機を借り、毎日あちらこちらを掘り返しては我が子を探している・・・。発災時の避難誘導に問題があったのでは、と裁判にもなっています。あの大川小学校です。迷うことなくトラックを停め、入口の献花台で手を合わせてから校舎に近づきました。同行のN先生は教育者という立場から、このような教育の場であった学校や病院の遺構を見るのが一番辛い、と言われていました。陸前高田の気仙中学校へ行った時も、市民病院を見た時もその後は暫く口を開かず、恐らくここでもいたたまれない気持ちになられたと思います。まだ校舎内は3年前からそのままの状態です。校庭に慰霊碑が建てられ、献花に訪れる人は後を絶ちません。この時も家族連れが献花に訪れていましたが、もしかすると子どもさんが犠牲になられたのかもしれません。無言で会釈を交わし、この場を離れました。
複雑な想いを胸に最後の目的地、女川町指ヶ浜漁港へ到着したのは予定の午前10時を少し過ぎていました。港では既にSさんの奥様「まんちゃん」が待っていてくれました。ここの港は嵩上げ工事が始まるから反対側へ、と案内された所にはSさんはじめ仲間の漁師さんたちが今や遅し、という顔でお待ちかねでした。挨拶もそこそこに、応援便始まって以来最大の「物資」を卸します。長さ5.7m、幅2.2m、高さ2.3mのアルミ箱です。新しいリフトで卸そうとしてくれましたが、流石に慣れない代物ですので選手交代、」こちらも不様な姿は見せられないといつもに増して慎重にリフト操作をし、無事にお届けの役目を終えました。これはまんちゃんからの連絡で、地元では品薄であり、仮に出物があってもとんでも無い値段をふっ掛けられるので、三重で無いだろうか、というものでした。仲間を通じて見つけたのが今回お届けしたものです。これは養殖のエサの保管庫として使われます。新しく造り直された漁港の一角にはシートで覆われた物がありますが、今までこうしてエサがタヌキやイタチ、猫などの動物に食い荒らされないよう、毎日シートを外したり被せたりという余計な作業が大きな負担だったそうです。アルミ箱に入れれば扉を閉めるだけ。手間が省けます。漁港の端に鎮座したアルミ箱、ここで新たな役目を担います。
こんな感じで無事完了。来月にもう1本お届けする予定です。
この間に陸前高田からはるばる後を追ってくれたⅠさん・Sさんが振舞いの準備をしてくれ、団子が焼けるタイミングを見計らって指ヶ浜仮設(14世帯)へご婦人方のお迎えまでしてくれました。現地スタッフがいてくれると本当に助かります。振舞いをすることを伝えて無かったので、最初は若干皆さん戸惑い気味でしたが、すぐに馴染んで戴けました。ここも皆さん温かい方ばかりで、それ以上に海の男の気前のいいこと!一人の漁師さんが、ここのホタテ食べてみな、とわざわざ船を出してホタテを獲りに行ってくれたと思いきや、もうお一人が「ホヤ食ったことあるか?」と。見たことはあっても食べたことはありません、と答えるとこれまた「今から獲ってくっから!」とのこと。またまた好奇心がムクムクと湧いて来ました。「一緒に乗せてって下さい。」恥ずかしがりだけど厚かましい私、漁師さんと一緒に船外機船でホヤの養殖場へ。ロープを手繰り上げると拳くらいの大きさのホヤが鈴なりに付いています。まるで海のパイナップルです。
採れたてのホヤ。「水管」があり、面白い事に吸出口は+、吐出口は-なんです。因みにマイナス側を押さえて腹(?)を押すと、プラス側から海水を吹き出します。水鉄砲ならぬ「ホヤ鉄砲」になりそう!(#^.^#)
漁師さんが獲れたてを捌いて海水で軽く洗って差し出してくれました。噂通り、かなり磯の香がキツイですが、何とも言えない食感で、結構クセもなく美味しく戴きました。焼いたり天ぷらにしてもいいそうです。
ホタテ船にはこんな機械が据え付けてあります。水揚げしたばかりの貝にはゴミやフジツボ、海藻などが付いているので、この機械に通して表面をきれいにします。これもすぐに貝を開いて貝柱を食べさせてもらいましたが、文句なしに美味しいです。貝柱の繊維も歯触り良く、貝ヒモは焼いたら絶品でした。
ここ指ヶ浜では銀鮭、ホタテ、ホヤの養殖、ワカメ・昆布・ウニと色んな漁が生活の支えになっています。正に天然の良港で、次回訪問時には魚釣りをさせて戴けるとか。真剣に楽しみにしています。それにしても、養殖の網も筏も流されてからの再起ですから大変なご苦労があったと思います。港自体は復旧していますが、まだまだ施設・設備はこれからです。冷蔵倉庫や加工場が出来てこそ復興と言えるんでしょうが、ここでも原発の風評被害で浜値がかなり下がっているそうです。少しでも漁師さんたちの努力が報われます様、浜に活気が戻る日が一日でも早く実現することを祈るばかりです。
振舞い&配布会も和やかな内にお開きとなり、漁師さんが獲ってくれたホヤとホタテもお土産に戴き、更にSさんからはご自慢の銀鮭を7~8匹戴きました。岩塩で塩鮭にしたものは焼き、生のものは刺身にして戴きましたがこれまた絶品!ホタテも会社で焼いて社員にお裾分けしましたが、肉厚で甘みのあるホタテは大好評でした。指ヶ浜の皆様、お心遣いに心より御礼申し上げます。2日間お世話になったⅠさん・Sさんともここで別れ、一行は帰途に就きます。来る時は山越えで来たので帰りは女川中心部へ回ります。震災遺構として残される倒壊した建物、高く積まれた盛り土を見ながら石巻から三陸道へ。今回はすごく内容の濃い活動になったな、という満足感を味わいながら、もう1ヶ所立ち寄ります。3月にお届けした耕運機、その後どうなったか確認しなきゃ、とまっすぐ亘理へ。Sさん宅にお邪魔して来ました。この日はご親戚に不幸があり、お通夜だと事前に伺っていましたが、子どもさんたちも楽しみに待ってくれていると聞いては行かないわけには行きません。いつも通り元気一杯の子どもさん達に迎えられ、ビニールハウスの中を拝見すると株分け真っ最中のイチゴの苗がありました。通常より早いそうですが、もう少しでハウスが苗で埋め尽くされます。
女川町の中心部です。全域で復旧工事が行われています。
全盛期にはまだまだ及ばないものの、着実に露地栽培の仙台いちご復活に向かっています。苗を育てるにも気の遠くなるような地道で根気の要る作業が続きます。漁業にしろ農業にしろ、自然相手・生き物相手の産業は苦労がつきものでしょうが、それだけに豊漁・豊作の時の喜びはひとしおだと思います。普段食材を買う時はあまり気にしませんが、こうして生産者の姿を目の当たりにすると何一つ無駄にしちゃいけないんだ、と思います。耕運機はやはり不具合が生じたようですが、エンジンがかかったから修理に出しているとのことでした。取り敢えずは活躍しているようで一安心です。
以前にお届けした花も大きくなりました。1mも無かった樅の木もモコモコと新芽が出ていました。完全に土地に馴染んだようで、こちらも立ち枯れの心配が無くなりました。やはり来て良かった!葬儀の段取りでお忙しい中、わざわざご両親も戻って来て戴き、獲れ立ての野菜もたくさん戴きました。しばらく休憩させて戴き、又の訪問を約束して亘理を後にしました。
今回の活動では各地でゆっくり話を伺うことが出来ました。そこで感じたのは、思っていた以上に地元の方々が元気なこと。たまたまかもしれませんが、地元がイベントを企画したり、人が集える場所を作ったり、何か「勢い」を感じました。勿論、我々には想像も出来ないような心労もあるでしょうし、言いたくても口に出せないこともあるはずです。ただ、やはり気になるのは「まだこうして来てくれるんだね」とか「またこちら(東北)へ来たら顔だしてな」という言葉でした。まだまだ仮設住宅を出られる方はほんの僅かです。嵩上げ工事も完了まで時間が掛かり、復興住宅が完成するのはまだその先です。先行きの不安、震災が風化していく怖れ、それでもお互いが助け合って前を向いて進んでいこうとされているように感じました。我々に出来るのは限られた時間の中で現地の様子を伝える事しかありません。写真を見て戴いた通り、まだまだこれからなんです。刺繍入りタオルを作っている所が希望されるのはそれを買ってくれる人、売ってくれる人でしょうし、こちらからそのような販路をご紹介出来ればこれも大きな応援になります。もし手作りポーチなどを扱われているお店があれば「まんちゃん」をご紹介できます。微々たることですが、「架け橋」になりたいあすなろ応援便は、今後の活動でそのような情報収集にも力を入れて行きたいと思っています。
このブログをお読み戴く皆様からも、忌憚のないご意見・アドバイスを戴ければ幸いです。長文になりましたが、最後までお読み戴きました事に厚く御礼申し上げ、第35弾の活動報告とさせて戴きます。