3年前、石川県小松市のKさんから1通のメールを戴きました。ブログを通して知り合った方が小さな子どもを抱えて自宅避難しているが、支援が無くて途方に暮れている、そこへ行ってもらえないか、という内容だったと思います。確か2011年の6月頃だったと記憶していますが、そのご縁で初めてお邪魔したのがこのブログや活動報告書で度々登場して戴いた宮城県亘理町のSさんでした。仙台空港から少し南に下ったこの地は「仙台いちご」の産地として、隣接する山元町と共に有名な場所だったそうです。然し、我々が初めて訪れた時には周囲には何も無く、数km離れた」海岸線の松並木が見られるほど全ての建物が流され、辛うじて1階部分がぶち抜かれた家屋が数件残っているだけの、正に「荒野」という表現しか思いつかないような場所でした。Sさん宅も前年に建てたばかりの新居が津波に襲われ、隣接した母屋は全壊、かつてイチゴ栽培のビニールハウスが何棟もあった場所は跡形も無かったんです。小学校2年生を筆頭に3人の子どもさん以外にこの地域に子どもの姿は無く、みんな仮設住宅へ入っていたため、自宅で生活されていたのは僅か数件でした。我々が訪問する際には近所の方に呼び掛けてもらい、一緒に物資を配ったり、「自宅避難者」の辛い立場を色々と聞かせて戴きました。支援物資の配布があると聞いて何時間も並んだ挙句に自宅で生活しているから、と物資を分けてもらえなかったり、配布の案内すらなかったそうです。仮設に入れば良かったかもしれないけど、ようやく手にした自宅を離れたくない、という思いで住居の2階で親子5人が生活していました。母屋に住んでいたご両親は仮設住宅へ入られていましたが、訪問する度に駆け付けて戴き、配布会の準備などを手伝って戴いたり、食事の用意をして戴いたりしているうちに少しずつ震災前の話を伺えたり、いつしか私にとっては「親戚」のような間柄になりました。
当初は恥ずかしがって親の後ろに隠れていた次女のKちゃん、まだオムツをしていたO君ともだんだん仲良くなり、今ではすっかり「お友達」になりました。こんなオジサンでも会えることを楽しみにしてくれ、逆に学校や保育所の友達とは休みの日には一緒に遊べないという現実に胸が痛んだこともありました。それでも家族全員の努力で行く度に少しずつ「元の生活」に近付いている様子に元気付けられたものです。1年目にはビニールハウスを復活させ、イチゴにはまだ早いからと野菜を作り始め、四国から提供して戴いた里芋なども立派に育ちました。2年目には母屋の立て直し、新家の修復も終わり、傍目にはごく普通の生活を取り戻したかのように思えたのも事実です。
しかしSさんのお父さん、Tさんは常々「イチゴ栽培をもう一度やりたい」と言い続けておられました。亘理や山元では「イチゴ団地」が建てられ、多くのイチゴ農家はそこへ入りました。しかし、5年後には割り当てられた設備や土地代を返済しなければなりません。御歳60半ばのTさんにしてみれば只でさえ自宅の建設やビニールハウスの購入で5年先に何百万円も負担出来ない、と団地への参加を見送りました。Tさんだけでなく、高齢の農家の方は断念せざるを得ないんです。更にもう一つの理由。イチゴ団地での栽培方法は「水耕栽培」です。作業は楽ですが、本来の仙台イチゴに較べるとやはり味が薄かったり、形がイビツであったりという問題があり、震災前の仙台イチゴを知る客からは不評だそうです。「だからこそ『露地栽培』で作らなきゃだめなんだ」、という強い想いを持ったTさんの言葉が頭から離れなかったんです。毎日何度も水道水を掛けて塩分を抜き、周辺のどの農家よりも早く試験的に野菜を植えていたTさんの姿、それを応援している家族の想いがひしひしと伝わってきたんです。
今年の1月半ば、Sさんから電話がありました。「お父さんが今年からイチゴを育てることになったけど、耕運機が津波にやられて動かず、修理見積りを頼んだら1台数十万円かかると言われた。何かいい方法はないだろうか」という内容でした。津波で完全に水没し、3年近く放置されていた機械です。普通に考えれば買い替えるしか無いですよね。然し、前述の通り家計が厳しいことも解っています。何とか力になれないものか・・・。そんな時、ふと気付いたのがボランティアで顔を出して戴いている桑名市のⅠさんです。Ⅰさんにはこれまでも家電をはじめ、音が出なかった電子ピアノまで修理して戴いた実績があります。取り敢えずSさんに「ダメ元で一度こちらで見てもらいます。ダメならまた持ち帰ります」とお答えし、数日後仕事で仙台へ行ったⅠ君に引取って来てもらいました。
最初見た時はまだ泥がこびりつき、所々に錆びた部分が見えます。レバーもスロットルも固まって動きません。果たして直るのか? そんな不安と共に、Ⅰさんと耕運機の格闘が始まりました。毎日朝から夕方まで当社へ通って戴き修理が続きました。カバーを外し、本体の部品を全てバラして行きます。エンジンからは泥や海水が出て来ました。当然、内部は錆ついています。それでもこつこつと、本当に気の遠くなるような地道な作業を続けること約2ヶ月。なんと、2台ともエンジンが掛かりました。3年の時間が過ぎ、また新たな命が吹き込まれたかのようなエンジンの音を聞き、これで本当の仙台イチゴ復活に繋がる、と大げさですが感無量でした。その後、腐食して穴の開いたマフラーを修復し、先週金曜日に作業が完了しました。
私自身にそれだけの技量があれば問題無いんですが、そんな能力は残念ながら持ち合わせていません。無理難題を持ち帰っては周囲の人を巻き込んで振り回すのは今に始まったことではありませんが、この時ほど技術のある人を羨ましく思ったことはありません。Ⅰさんだけでなく部品や工具等に何人ものご協力がありましたが、驚くべきは殆ど部品交換をせずに修理してもらえたことです。正直、ネットオークションで同型に近いものが手頃な値段で出ていました。中古に買い替えた方が早いんじゃないか、交換出来る部品を買って取り替えた方が楽じゃないか、と普通は考えますよね。それでもⅠさんも我々も、使い慣れた機械を直してあげたら相手(Tさん)も喜ぶだろうな、その思いだけでした。慣れ親しんだ耕運機、共に震災を乗り越えた耕運機がまた手元に帰って来た時のTさんの顔を思い浮かべながらのことだったと思います。Ⅰさん、本当にお疲れ様でした。そして心より御礼申し上げます。この耕運機、今週末に亘理へ帰ります。来年の1月、我々が待ち望んでいた「露地栽培の仙台イチゴ」の復活をこのブログでご報告出来ると確信しています。
Sさんからは、いつも何か御礼をしたい、と言って戴いていました。喜んで戴けたらそれだけでいいですよ、とは答えていたものの毎回気にされているので、「それじゃ、イチゴの栽培が復活したら4パック入り1ケース下さい」とお願いしました。3年前の秋でした。内心、その当時の状況からは失礼ながら期待すらしていませんでした。それでも本業のイチゴ栽培を復活してもらう励ましにでもなれば、という気持ちもあったんですが、その3年前の約束を果たしてもらえそうです。その時は遠慮なくこの耕運機で作った畑で採れたイチゴを思う存分味わいたい、と今から来年の1月に思いを馳せています。